三島神社(蔵貫)秋祭り

三瓶町朝立地区で行われるのは國造神社の秋祭りですが、蔵貫地区には三島神社があり、そこでも秋祭りが行われます。

この二つのお祭りは同じ日に開催されるため、私が三瓶町に嫁いできて7年…蔵貫まで車で10分くらいなのに全く見る機会がありませんでしたが、今回蔵貫区長さんのご協力で練習を見せて頂くことができました。


夜7時半頃、三島神社には小学生の男の子たちと青年団の方々が集まりました。
神社で行われるのは唐獅子の練習。だいたい小学3~6年生くらいの子が唐獅子の担当です。

柱が太鼓のかわり。ちょっとずつ歴史が刻まれるようで趣ありますね。青年団長・笹田さんが厳しく優しく指導中。神様の前で、練習にも力が入ります。

神社での練習風景は風情がありますね。練習用の太鼓は神社の柱。長年そうされてきたのでしょうか、叩かれた部分は削れてきていて歴史を感じます。

唐獅子の指導をするのは青年団の皆さん。青年団長・笹田知宏さんはじめ、昔を懐かしみながら、また今年の祭りを成功させようと、唐獅子の指導を行っています。

中には上手にできない!と、自分に腹が立って泣きだしてしまう男の子も。

國造神社の唐獅子や有名な八幡浜の唐獅子と比べると、唐獅子の頭はひとまわり大きて重く、踊りは丁寧で温和な印象を受けました。

練習を見ていると、なんだか三島神社だけずいぶん時間がゆっくり流れているような、そんな感じがします。
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青年団の方たちの前で緊張&真剣!國造神社のお祭りと違い、三島神社のお祭りの主役は御神輿(おみこし)です。3基の御神輿が繰り出します。

御神輿を通せんぼする係のような存在の牛鬼は中学3年生を中心に、四ツ太鼓は乗り子さんの親御さん、親戚、地域の人で担ぎます。

御神輿の下をくぐると御利益があると言われており、夜に行われる御神輿の走り込みが迫力があるそうです。

蔵貫地区でも朝立地区と同じように揚(上げ)と浜に分かれ、それぞれ役割があります。大まかに言うと揚は五ツ鹿担当、浜は牛鬼、四ツ太鼓、唐獅子担当です。

しかし近年、若者が仕事で都会に出てしまう影響で青年団の人数も減り、揚の五ツ鹿ができなくなってしまったとのことです。また五ツ鹿が復活する時が来るといいですね。

練習を見に来られた、後藤眞之区長にお話を伺いました。

― 担ぎ手や継承者不足は蔵貫でも問題なんですね。

人数少ないねぇ。

もちろん地域全員で担ぎ手集めたり、向こう(國造神社)の祭りも同じ日やから、三瓶町内の祭りがない地域の人にも手伝うてもろたりして、いろんな人に協力してもろうとるんやけど。

でもこの地区のこの人数で、よく続いとるもんや感心するよ。

今年はほら、そこの男の子。この前引っ越してきたんだけど、人がおらんから言うて参加してもらっとるんやけど、この短い間によく唐獅子の踊り頑張っとるよ。

去年の写真。衣装も立派ですね!─ 三島神社のお祭りは青年団が中心に活動されているんですか?

やっぱり青年団が一番の働き手よ。

これからお祭りに向け牛鬼の修復作業もあるし。祭りの日もいろいろ準備あるし、担がないかんし、飲まないかんしで皆大変やね。

― いつ頃から蔵貫のお祭りは始まったんでしょうか?

うーん…昭和8年頃の写真が飾ってあるし、ずいぶん古いんやないかなぁ?けど、その辺は宮司さんにでも聞かんとなかなか分からんなぁ。
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そこで練習を見せて頂いて興味がわいたので、三瓶町誌で三島神社秋祭りの歴史について読んでみました。

三島神社の渡御祭(とぎょさい)は貞享(じょうきょう)四年[1687年]に始まったとされています。その時は

弓矢と金幣(金色の御塀)を奉持することになって、今日に至っている。

とありますので、神輿や練りが出ることはなかったようですね。

寛永二年[1749年]に正殿が改装されたという記録があり、

この時三体の神輿の渡御が始まったと思われる。

とあります。

その後『御祭礼御道具三つ揃、神輿担ぎおよびねり定め』が記されています。

天保八年[1837年]九月九日定
三島神社御祭礼御道具三つ揃
一、御長柄、上げ、同、浜
一、御鉄砲、浜、同、上げ
一、御弓、浜、同、上げ
隔年

明治十九年十月三十日
三島神社神輿担ぎおよびねり定め(上げ)
神輿かつぎ…戸別割、捧鼻、脇かつぎ、本肩
御長柄、御鉄砲、御弓…但し三道具の警固は三か村より一名宛出役す
相撲…片山五名、谷平三名、川原二名、但し警固は片山より一名、谷平、川原より一名、行司 谷平、片山
鹿踊り…是(これ)まで通り

すでに鹿踊りが『是まで通り』とあるので正確には分かりませんが、三島神社秋祭りのお練りが形作られたのはだいたい明治十九年[1886]…今から約120年前ではないかと思われます。

三島神社の秋祭りは先に書いたように神輿が中心ですが、この神輿を担ぐ人数について、明治~大正時代にはその数がしっかり決まっており、揚の人と浜の人の戦い(?)があったようで

輿担ぎは上げ十五名、浜十五名、計三十名の青年が奉仕する。一神輿十名(上げ五名、浜五名)で担ぐので、口論も激しかったが、明治、大正と続いてにぎやかな祭りが行われた。

と、ご丁寧に書いてあって笑ってしまいました。「これは三瓶町誌に書いておかな!」っていうくらい口論が激しかったんでしょうね。当時の勢いがよく伝わりますね。
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青年団長の笹田さんは、普段はこんな真面目に写らない人だと思います。皆江在住の特派員が三島神社秋祭りに参加するというので、じゃぁついでに写真お願いしよう!と言ったら、区長さんと青年団長さんに

「ええっ!?そら無理やで!みんな酔うとるし、立派なカメラがめちゃくちゃになってまうで!」

…と、止められてしまいました…。

というわけで、来年か再来年か…できる限り早いうちに、私自身が三島神社秋祭りの一部始終を取材したいなと思います(酔っ払い特派員は貴重な担ぎ手ですから、心おきなく酔っ払ってもらいます)。

蔵貫の皆さん、今年の秋祭りも楽しく頑張って下さいね。『口論も激しいけど、にぎやかな祭り』の噂を聞けるのを、期待しています。

2012年11月21日更新:練習風景の動画をyoutubeにアップしました。

[引用:昭和58年発行「三瓶町誌 下巻」]

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