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「東京物語」から幸せを学ぶ

日本の小津安二郎監督は海外から非常に評価の高い監督です。代表作「東京物語(1953)」が、オリンピックで沸くイギリスの映画協会が発光する「サイト・アンド・サウンド」誌で世界の映画監督三百五十八人が投票で決める最も優れた映画に選ばれたと報じました。

今まで観た事がなかったので、早速レンタル屋さんで借りてきてみたところ、非常に丁寧に作られており、これは深いな、と感じましたので初見しただけの生半可な知識で思ったところを書きます。それは、「幸せ」とは何かということです。

「幸せ」とは、何でしょう。お金持ちになって成功することでしょうか、結婚して家庭を築くことでしょうか。

映画の中で、こんなシーンがあります。

尾道の老夫婦(笠智衆・東山千栄子)がせっかく東京の息子・娘の家を遊びにきたというのに、開業医の息子と美容院経営の娘は「忙しい」とばかり言っていてまったく世話をすることができません。
娘にいたっては父母を熱海の安宿に行かせて予定より早く戻ってくると露骨に嫌な顔をする始末です。

夢を叶えて東京で店を持ったのに、いや、だからこそ、余裕なんてないのは良く分かります。

老夫婦を東京見物につれていってやり気持ちばかりとお小遣いまで渡すのは戦争で夫を亡くした義理の娘(原節子)でした。

彼女は一人でアパートに暮らし、仕事も当時の女性にしてはしっかり重要なポジションを任せられているようではありますが会社を休むこともできます。
開業医や美容師ではお店を閉めることになるのでこうはいきません。

東京で一番「ゆとり」があるのが会社員である義娘ということです。
義母に「次男の事は忘れて幸せになってくれ」と言われ、笑顔が強張る義娘の原節子、
さらに尾道でも義父に「あんたはええ人じゃ」と同じことを執拗に言われ「わたし、ずるいんです」と泣き出します。

その直前、義母の葬式が終わると仕事があると東京・大阪に帰ってしまう子供たちを非難する孫の京子に
「皆、自分の生活ができるの。なりたくないけど、私もああなるのよ」
と言ったところでした。

彼女の複雑な心理状態とその正直さにとまどう義父の場面はこの映画でもっとも印象深いシーンでした。

ゆとりのなさが人を変え、優しさをなくしたのだとすると、幸せは「ゆとり」でしょうか。
「ゆとり」という言葉に今でこそ良いイメージはありませんが、考えてもみてください、
音楽を楽しめることも、絵や映画を鑑賞することも、すべて生活のゆとりがあればこそです。金銭的な余裕、時間的な余裕、その2つが揃って幸せといいます。

もちろん、ゆとりを追い求めることだけが幸せな人生ではありません。
もう一つの尺度、「守るに足るべきものか」ということがあります。

仕事、家族。命をかけて守るに足るか、そうならば「やりがい」という満足をもたらします。
老父が東京で再開した友人と飲みながら友人は「息子は敢闘精神が足らない」と嘆き、老父は「もっとモノになってるかとおもっとった。しかし、ええほうじゃとおもわなきゃ、とおもった」。
どんだけ子に期待しているのか・・・・。親が子に求めているのはこっちなんですよね。

「やりがい」を求めれば「ゆとり」は失われるもの。だから「人生はいやなことばかり」。うーん、せつないですね。
世のお父さん、お母さんたち、いつか受け入れましょう、子供が子供でなくなることに。